働いたら遊ぶ

フライフィッシング・バイク・キャンプなど、アウトドアでのモノ・コトなど

イワナばなし3

以下、転載。
筆者は大正生まれ。

●双六小屋のあけくれ

わかっていながら無理をかさねて、胸を患い、高山市郊外の病院や療養所で生活を送った。退院間近になると、夜明けしらじらに療養所を脱出しては、美女峠や大西峠に通ずる谷筋へ入って、イワナを釣った。時々、アマゴも釣って帰ったから、大西峠を越えた向こう側、つまり益田川筋へも入っていることになる。
帰って流し場で腹を出し、塩をふってそれからそっとベッドにもぐり込み、清冽な流れや水泡のうずなどをまぶたに浮かべていると、看護婦さんが回ってくる。「プルスが多いわね」「うん、すてきな恋人の夢みたんだァ・・・」 こんな具合で過ごしたが、前まえから、双六小屋の主人 K氏が、身体の調子をなおすには、山が一番いいから来い。と誘ってくれていたので退院すると、一週間は身辺の整理をすごし、待ちかねたように北アルプスの双六小屋へ入った。
川では、熊やカモシカやオコジョや雷鳥など、いろいろの動物におめにかかったが、たっぷりつきあったのは、やはりイワナであった。
小屋には、Kさんの弟で「姫田のおっちゃん」と呼ばれているイワナ釣りの名人がいたためでもある。おやじさんは、朝黒部へ出かけ、夜八時ごろ帰ってくる。収穫は少ない時でも二百尾はかかしたことがなかった。往きは、三保蓮華の頂上を越したあたりから、斜めに黒部上流の祖母(ペア)沢の出合いと五郎沢の出合いとの中間あたりへ降りてしまうのだからかなり早い。最盛期には、赤城沢近くの台地に幕営して、一週間くらい釣りつづけ、それを全部薫製にして来る。このときは二人ほど薫製係をつれてゆくが馴れぬものはテンテコ舞いの急がしさである。私も、そのテント場へ行ったことがある。七月だというのに流側の湿地帯にミズバショウが咲いていたし、浅い水溜りの中に紫色のきれいな棒切れがあって拾おうと手を出したら、これがなんと尺を越すイワナで、チャバッと逃げられて驚くとともに、いよいよイワナの宝庫へ来たという実感に、心がときめいた。
そのころは、「雲の平」が開かれ始めた頃なので、黒部のイワナも、人にあまり馴れていないせいもあって、面白いほど釣れた。
おやじが黒部から帰った翌日は小屋は三百からのイワナのフライで大変である。小屋のすぐ下の双六池のほとりのテント場にこの話しが拡がると、みんな飯盒やコッヘルのフタを持った長い行列ができる。どの位、並んでいるのか。数えに行くと、はるか後ろのほうで「オヤジサーン、ここいらまではダイジョーブゥ」「いちどでいいから食べてみたいのよォ」などと呼ばれると、調子にのって『イワナのフライ。もうすぐあがります』と書いたチラシが心細くなってくる。それからは、二つに切って売ることにしたがすぐ売切れてしまうので、しばらくおやじさんの「黒部往還」が続いたものだった。ある時「今日は一等うまいイワナを釣って来るで・・・」と相棒一人と双六小屋を降っていったが一匹もあげて来なかった。「蓮華谷口の萩原岩屋までいったが、一匹もおらん。ひどい荒れようや。○風で埋まってまったらしい・・・」と首をかしげていた。ーーこれは伊勢湾台風の継ぎの年のことである。

昭和四十四年五月発行